2007年上半期
+++郁さんのコンサート+++見どころ・聴きどころ+++
山岸 佳愛
2007年は、例年よりも一足早く桜の開花を迎えました。郁さんのコンサート活動もいよいよ満開の時です。今シーズンの目玉は、ベートーヴェンとブラームスの室内楽曲、そして没後100年にあたるノルウェーの2人の作曲家、グリーグとグレンダールの作品。もちろんウィーンに因むレパートリーも彩り豊かです。
◆まずは4月の公演から。13日(金)には東京・オペラシティにて「歌曲の夕べ〜愛の炎に燃えた女たち〜」が開かれます。共演を多数重ねてきた日野妙果女史と郁さんが、19世紀ロマン派の歌曲を通じて、女性達の様々な愛の軌跡を綴ります。シューマンの〈ミニヨンの歌〉は、ゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』に登場する少女ミニヨンの哀しい片想いを描いたもの。また同じゲーテの戯曲『ファウスト』からは、主人公の野望の犠牲になった美女マルガレーテの真摯な愛が、レーヴェによって格調高く音楽化されています。ベルリオーズの歌曲の題材は、あの『ハムレット』(シェイクスピア作)の中の最も悲劇的なシーンである「オフェーリアの死」。狂おしい思慕がもたらした最期の情景を、ベルリオーズはミレーの絵画に劣らぬほど見事に表現しました。
一方、ワーグナーの《ヴェーゼドンクの詩による5つの歌》は、架空の物語からではなく、現実の恋愛から生まれた作品。ワーグナーはチューリヒに亡命中、自分に多大な援助をしてくれた音楽愛好家ヴェーゼドンクの妻マティルデと相思相愛の仲になってしまいます。実らぬ愛に苦しむ最中、ワーグナーはマティルデに楽劇《トリスタンとイゾルデ》の台本を献呈しました。まるで自分達のように愛に苦悩する男女を描いた台本に心動かされたマティルデは、その感銘を5つの詩に託してワーグナーに書き贈り、ワーグナーがそれに付曲したことによって、二人の愛の結晶化というべき歌曲が誕生したのです。
◆15日(日)は所変わって新潟でのピアノリサイタル。モーツァルトの《きらきら星》に始まり、シューベルト、リスト、ショパン、ドビュッシーの名曲が揃います。客席との距離を感じさせない郁さんならではのトークとともにお楽しみ下さい。とくに郁さんのショパン演奏はなかなか聴けませんので、ぜひこの機会をお見逃しなく。なお29日(日)には山形・庄内にて、同じプログラムによる公演があります。
◆ふたたび東京にて18日(水)、扇谷泰明・川上徹両氏とともに、郁さんがベートーヴェンとブラームスのピアノトリオを演奏します。ベートーヴェンのトリオ第5番「幽霊」は、質実なベートーヴェンにしては珍しく、タイトルにも現れているように少しひねりの効いた作品。「幽霊」という副題は、第2楽章が持っているえもいわれぬ神秘的な雰囲気のために与えられたものですが、その幽霊の姿は、日本の怪談に出てくるようなオドロオドロしいものではなく、ベートーヴェンの悪戯心が作り上げたカラクリ人形のお化けといったところでしょう。しかし第2楽章はピアノが主体ですから、「幽霊」が出るかどうかはピアニスト、つまり郁さんにかかっています。さて郁さんはどんな幽霊をホールに浮遊させるのでしょうか。
対してブラームスのトリオ第1番は、いかにもブラームスらしいシリアスな音楽です。このトリオには、青年期に書いた作品と、晩年にこれを書き改めた作品の2つがあり、今日演奏されるのはほとんど後者。ブラームスがしばしば過去の作品に手を加えたことはよく知られていますが、トリオ第1番の場合、確かに改作のほうが全体的な完成度は高いものの、原作にみなぎっている、20歳の筆ならではの溌剌とした、先を恐れぬ前進力も捨てがたい魅力でしょう。ところで、青年のブラームスと晩年のブラームスが両棲するこのトリオは、彼にとって大切な思い出をしのばせています。原作が書かれた時期、ブラームスには恩人シューマンとの――そして生涯の想い人となるその夫人クララとの――出会いがありました。この出会いを記憶しているかのように、トリオ第1番には明らかにシューマンの作風の影響がみてとれます。さらに、その初演でクララがピアノを担当してくれたという、ブラームスにとって幸せな記憶も刻まれているに違いありません。
◆さて26日(木)には、ロマン派三大協奏曲のひとつ、グリーグの協奏曲イ短調を、東京ニューシティ楽団との共演でお送りします。ティンパニの連打に導かれて激流のごとく降下するピアノの和音は、舞台を目指すピアニストならば一度は憧れをもって思い浮かべる響きでしょう。グリーグはライプツィヒ音楽院でクラシック音楽の形式を学びましたが、卒業後に民族主義的な意識に目覚め、ノルウェー音楽の創造を志すようになりました。その意志がはじめて作品に反映されたのが、このピアノ協奏曲です。第1楽章序奏の激しい情熱、第1旋律の哀切な感情の広がり、第2主題の牧歌的な優しさ・・・これでもかというほどのロマンティシズムに溢れた音楽ですが、「グリーグは不思議にも喜びを短調で表している」という評言があるように、短調が基調でありながらどの楽節にも曇りのない幸福感と開放感があるのが特徴です。ノルウェーという、19世紀には辺境とみなされていた地の作曲家の音楽に人々がここまで惹かれた理由は、そこにあるのかもしれません。聴き所は、主要主題が華やかに装飾されて再現するピアノ独奏部分。オーケストラに負けない響きの波に身をゆだねて下さい。
◆1ヶ月挟んだ6月4日(月)には、「知られざる作品を広める会」主催によるアガーテ・バッケル=グレンダール(1847-1907)の作品展が東京で開かれます。グレンダールは、グリーグと同じくノルウェーの作曲家。約190曲の歌曲やノルウェー民謡の編曲を残しています。ノルウェーでは、1814年に国家としての政治的独立が成し遂げられたことによって人々の民族的自覚が高まり、19世紀から民俗音楽研究や芸術歌曲の創作が盛んになっていました。グレンダールはそうした活動において重要な業績を上げた人物として知られています。歌の創作に長けていたことから、ピアノ曲には表題のついた叙情的な作品が多いのが特徴で、作風はシューベルトやメンデルスゾーンら初期ロマン派をモデルとしています。郁さんが演奏するのは、妖精物語組曲「青い山」、3つの小品、幻想小曲集など。初めて聴く作品だからこそ、郁さんの感性で再現された響きを味わいたいものです。
◆さて6月23日(土)には、再び「“のだめカンタービレ”の演奏会」が愛知に帰ってきます。今回はラヴェルの協奏曲ト長調の全曲演奏という豪華版。ピアニストにとってこれは超絶技巧という名のアトラクションですが、それでも曲の性格上、涼しい顔でサラっと弾かなければならない過酷さがあります。郁さんの演奏が、サウンド面だけでなくビジュアル面でも、弾いている作品の世界を表現しきってしまうことは皆様ご存知のとおりですが、ラヴェルのような難曲でも、郁さんは「のだめ」のように遊びの境地に至ってしまうのかもしれません。
◆最後は、ヴァイオリンとピアノによる2つのデュオ・コンサートをご案内しましょう。1つ目は「漆原朝子ヴァイオリンリサイタル」。6月6日(水)〜8日(金)、16日(土)の4日間にわたる、名古屋、大阪、兵庫、東京の4都市での公演です。プログラムはモーツァルトとシューベルトのソナタ(ソナチネ)に始まり、歌曲〈挨拶を送ろう、キスを送ろう〉の旋律を使ったシューベルトの《幻想曲ハ長調》、ウィーン舞曲の情緒たっぷりのクライスラーの小品、そしてガラス細工のように精巧なウェーベルンの《4つの小品》へと続きます。古典派から新ウィーン楽派まで、ウィーンの黄金時代が生んだ作品史のハイライトをご覧ください。
◆2つ目のデュオ・コンサートは、「豊島泰嗣ヴァイオリンリサイタル」。こちらは6月27日(水)・29日(金)の2日間、九州は福岡・長崎で行われます。メインのプログラムは、ベートーヴェンのソナタ第5番「春」とブラームスのソナタ第1番「雨の歌」。爽やかな旋律で奏で始められる「春」は、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの中でも、最も人気の高い作品となっています。演奏者達にとって最大の難関は、第1楽章冒頭の旋律(第1主題)をどう弾くか。ここは「春」のイメージを決定する最重要ポイントですが、2つの楽器が何の前触れもなく同時に弾き始めなければならないので、入りのタイミングを合わせるのが非常に難しいのです。それだけに、両奏者の呼吸がピタリと合い、スッと曲が流れ始めた瞬間の美しさは、聴衆が思わず溜息を漏らすほど。
ブラームスの「雨の歌」は、作曲者が40歳を過ぎて初めて出版したヴァイオリンソナタ。それだけに、これは「第1番」にしてすでに円熟した様式を誇っており、ブラームスの傑作の1つに数えられるに足る作品です。トリオ第1番の初演にクララ・シューマンが関わったことには先に触れましたが、このソナタ第1番の初演では、ブラームスがピアノを弾き、クララは客席でそれに耳を傾けていました。
皆様にお知らせです。豊島泰嗣氏と郁さんのコンサートで演奏される小品を収めたCDが、6月にオクタヴィア・レコードからリリースされます。どうぞご期待下さい!
山 岸 佳 愛
Kae Yamagishi
桐朋女子高等学校音楽科ピアノ専攻卒業。
同大学作曲理論学科音楽学専攻卒業。
現在、東京藝術大学大学院音楽研究科音楽学専攻に在学中。 |
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